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 また夫婦の話。
京都の町家を舞台にした、地味で、しっとりした話。
 二人で暮らしてきて、老齢に差し掛かる夫婦。
どちらかが先に逝けば、どちらかが遺される。
これ、結構答えのない重い問題だが、じっくりと受け止めて生きている。
そんな中、妻がALS(筋萎縮性側索硬化症)を発症する。
全身の筋肉が徐々に弛緩していき、最後は内臓の機能や呼吸までもが影響を受けて死に至らしめる難病。
絶望的な状況ながら、夫は無骨ながらも懸命に妻を看病して、残された時間を穏やかに過ごそうとする。

 時にタイトルがすべて。
現在、劇場公開中。
前回に引き続き夫婦の話。

「いつも愛妻家」でも、もっと意思強く「いつでも愛妻家」でもない。
人によってはそういう方もだが、「今度も愛妻家」、ではない。

"死は生の対極としてではなく、その一部として存在している。"
これは確か村上春樹の昔読んだ短編の中にあった言葉。

"死が二人を分かつまで"
結婚式などの宣誓の時にも聞きますが、僕には鮎川哲也の短編ミステリを思い出させます。

「今度は、愛妻家」
タイトルは雄弁です。

 2010年はどういう書き始めでいこうか-
ずうっと考えていました。
映画の中のお葬式のシーンを見続けると、様々に思うところが出てくる。
それは、"人の死を遺された人がどう受け止めるか"ということと、"亡くなった人(役)の意思の表現"これに集約されると思う。
映画は筋書きがあるので、それをストーリーに織り込んで表現されていく。
日常生活の中でそれに向き合う時は、それぞれの人の心の中に去来するものがストーリーとなる。
 お葬式のシーン一つ一つもそうだが、"死を迎え、それをどう送るか"
「人生最後のライフデザイン」を見つめていこうと思う。

 2008年春からスタートしたこのコラムも、約2年間、44本の映画を紹介してきました。
新たな年、2010年に入り、今年も頑張って「映画の中に見るお葬式」、これを紹介してきたいと思います。

 しかし、この"作業"は、中々インプットに時間を要します。
何かの回の時にも言いましたが、「あ!あの映画にお葬式のシーンがあったな。」と思い、その映画を見返すところから始まります。
その閃きと時間が無いと進みません。
これがなかなか・・・
まあ、言い訳せずにやらねばならないのですが、忙しさにかまけると「枯れた井戸」になってしまいます。とはいえマイペースにと。
さてさて、年初はそんな徒然に、本格更新は今月の半ばから。
映画の中のお葬式は、ストーリーや主人公のキャラクターを一度落ち着いて考えるクッションのようなシーンが多いのですが、謂わば映画の中での分岐点(ジャンクション)のような役割。
今年はその視点だけでなく、邦画、洋画、韓国や中国ほかの映画との違いなども
その本質と作用をもう少し見極めて観ていきたいなどと、ツラツラと考えております。

 それでは、新しい年のご挨拶にかえて。

 今年は振り返るほど映画を観ていませんでした。
大体、年間100本強。少なくても50~60本(一週間に1本ちょっと)は観ていましたが、今年は数えるほどしか・・・いや数えるほども、かな。
 そんなんではいけないのですが、どうも食指が動く作品がなく。
かつての仕事仲間、映画業界に今もいる連中に話を聞いてみると、今年は日本の映画業界全体の興行収入(簡単に言うと映画館(劇場)でチケットを買った売上)で1,800億円規模とのこと。
昨年、一昨年が大体2,000億円弱で、更にその前年が2,000億円強なので、1年で200億円、約10%強ほどの落ち込みになります。
ちなみに昨年の大ヒット作「崖の上のポニョ」が155億円の興行収入。
今年はメガヒット作品が生まれず、全体的に苦戦したのかがよくわかります。
全国でのスクリーンの数は、3,600ほど。
なので1スクリーンの興行収入は、5,000万円ほど??
そうすると1ヶ月が417万円、1日平均だと14万円弱。これを平均客単価換算して@1,600(前売り/割引と当日のおおよそ)で割ると1日の来客数が87人ほど。
段々寂しさが増す感じです。
何の影響なのか、色々言われてますが、まずは土日の高速道路の割引。
どこまで行っても1,000円、というものですね。
高速道路は安い⇒天気がいい⇒ドライヴでどこかへ(近場の暗い映画館には行かないかな)という感じでしょうか?
一時期全国各地にできたシネマコンプレックス。
たくさん出来ているように思え、映画業界の好況感を示したかのように思えましたが、最近では場所によっては閉鎖するところも。
通説的には、「見晴らしのいい」場所にあるとこほど閉まってる、なんて言われてます。

 前回紹介した「アラビアのロレンス」もそうですが、何回も観返したくなる作品がある。
「アマデウス」もそういう一本。
1984年にアカデミー賞で最優秀作品賞、監督賞、主演男優賞などを獲得した。
賞を獲ることが全てではないし、しかも歴代のアカデミー賞の最優秀作品賞受賞作品の中でもその評価と観る者の価値がマッチする作品はそう多くない。
しかし、「アマデウス」はその価値が違わないことを証明し得た作品ではないかと思う。
「アラビアのロレンス」もそう。

 お葬式。そこから始まる。
1962年に製作された言わずと知れたデヴィッド・リーン監督の傑作。
舞台は1916年のアラビア半島。
世界大戦への予感をはらんだ情勢の中、列強が覇を競う。特に落日間近のオスマン・トルコ帝国が支配していたアラビアからシリア、イラクにかけては英仏がそれぞれに近隣に軍を派遣して様子を伺う。
イギリスは、半島に群雄割拠のように勢力を持ち、独自の掟で生きる各部族を動かしてゲリラ戦を仕掛ける。
これを指揮したのがトーマス・E・ロレンスだ。
彼は、アラビアに同化するかのように部族の衣装を身に纏い、らくだを乗りこなし、徐々に部族の信頼を得て"アラビアの英雄"として巨大なゲリラ勢力となり脅威となっていく。
しかし、それは敵だけでなく味方であるイギリス軍にも対してでもあり、政治的にも利用され、疎まれ、最後は失意の中アラビアを去る。

 最近、テレビドラマとしても新たに製作されたので、「ああ」と思う人も多いと思うが、1974年に山本薩夫監督により映画化されている。
というより、ここへ来てこの原作者・山崎豊子の諸作が続々と映画化、ドラマ化されている。
「不毛地帯」が唐沢寿明主演でドラマに、そして映画化は難しいのではと言われていた「沈まぬ太陽」が渡辺謙主演で映画として、それぞれ映像化されている。
もう観た方も多いと思うが、今、なぜ?この2009年にこれほど・・・という率直な感じだ。

 滑稽なお葬式!?
1920年代半ばのパリ。当時のパリは文化/芸術の発信地であり、憧憬もあり、たくさんのアメリカ人の作家・画家などがパリに渡る。
「巴里のアメリカ人」というミュージカル映画があったが、これは当時のパリに集うアメリカ人をやや斜に見た言い方でもある。
一方、それだけ多くのアメリカ人が憧れをもってパリに渡ったということ。
「モダーンズ」は、この頃のパリが舞台。

 80年代から続く刑事モノ。
コンビでの活躍を描くバディームービーの人気シリーズ。
元祖!とも言える、もはや老舗のシリーズの第三作。
 刑事の活躍なので悪役があっての勧善懲悪であり、その内容として派手なアクションシーンを売り物に、コミカルな場面やホロッとさせるシークエンスが詰まった作品で「一粒で何回も楽しめる」ような面白さが当時受けた。
この要素というか観客の楽しめる製作姿勢は現在にも様々に昇華されながら色々な映画に受け継がれていっていると思う。

 このコラムが更新されるのが9/16(水)あたり。
ちょうど日本では自民党から民主党に政権が移る。
というタイミングで今回は「小説吉田学校」(森谷司郎監督/1983年)を書こうと思い、見返してみる。
大体このコラムを書く時は、なんとなく昔観たのを思い出して、「ああ、お葬式のシーンあったな」と思い、新たにDVDなどで確認して書く。
「小説吉田学校」も確か・・・と思いDVDを観ると、これが無い。
あれ?政治の映画だし、緒方竹虎が亡くなる過程で、などと思うが無いものは無い。
しょうがない。
しかし、こうして改めて観るとこの映画は示唆に富んでいる。
物語は保守合同・自民党結党の55年体制ができるまでの吉田茂の対米講和条約締結への執念と官僚派と党人派の政治闘争を描く。
吉田茂の官僚派は選挙で若手官僚を次々と当選させ党勢を拡大していく、「吉田学校」と言われた若手政治家達には池田勇人、佐藤栄作、田中角栄など後に総理になる人材が、一方の党人派は公職追放から復活した鳩山一郎を旗頭に三木武吉や河野一郎といったクセのある政治家が支える。
三木を演じたのが若山富三郎、河野一郎は梅宮辰夫。もっと昔なら「仁義なき戦い」のキャスティングだ。(吉田茂は森繁久弥)
劇中、党人派の攻勢、切り崩しに追われ、吉田茂はいみじくも吐く
「いいか、鳩山には絶対政権は渡さん!」
これは今日の現首相と前首相の祖父の、60年ほど前の時代の闘争の物語。
実名の政治家による史実に基づくストーリーゆえ、役者がそれぞれの役の演じ方を含めて見応えがある。

 

 死を享けとめる・・・絆を再生する。
不慮の事故死で息子を亡くしてしまった家族。
精神科医の父親、出版関係の仕事をしている母親、そしてバスケットボールに打ち込んでいる長姉。
あまりにも大きな家族のピースを失い、それぞれが何を、どう思い再生していくかの物語。
2001年に公開されたイタリア映画で、原案から監督/主演をナンニ・モレッテイが務めた。
彼の作品では、80年代に「ジュリオの当惑」というのを観たが、それ以来。
ちょっと独特の癖があって、時にユーモラスだが、それが皮肉っぽく本質を捉えていたりする作風。観ようによってはウッディ・アレンっぽいのですが、もっと辛口で重い感じ。
この独特の味わいが意外に好きな人が多い?
「ジュリオの当惑」ではベルリン国際映画祭で銀熊賞を、そしてこの「息子の部屋」ではカンヌ国際映画祭のパルムドールを受賞している。
そんな「ナンニ・モレッテイ」風を記憶の彼方から期待しつつ観たのですが、むしろ正統派でずしっと来る。真正面から自らに降りかかってきたものを捉えていく。

 死を想い、そして生きる・・・
 ひと頃よりは落ち着いてきたとは言え、いまだBSやスカパーでは韓国ドラマ/映画がいつの時間帯でもどこかの局で放送されているような、"韓流"の勢いはブームから安定へという様相ですが・・・
まだ韓国の映画が公開されても一部の好事家のファンのものといった頃、と言ってもたった10年ちょっと前の1998年に公開されたのがこの映画。
前にこのコラムでも紹介した「春の日は過ぎゆく」のホ・ジノ監督の出世作。
「シュリ」が公開され、公開第一週の興行成績で1位を記録するのがこの翌年。「八月のクリスマス」は日本でもじんわりとヒットし、まさに"韓流"ブームの萌芽の作品であった。

 最良の友を送る弔辞は・・・
「私を愛したギャングスター」に続いてアイルランドが舞台の作品。
但しこちらはダブリンではなく、人口52人のアイルランド南部の孤島・タリーモア村。
緑豊かな穏やかな村だ。
ここに騒動が持ち上がる。
この村の誰かが買った「宝くじ」が大当たり(ジャックポット)。このことを新聞で知ったジャッキーは、友人のマイケルと妻のアニーを巻き込んでそれが誰かを探り当てて、あわよくば「おこぼれ」に預かろうと奮戦する。
しかし、見事大当たりのくじを引き当てていたネッドは、そのショックで心臓麻痺で亡くなってしまっていた。
くじの当たり分(なんと700万£!)は償還されてしまうのか-
一計を案じたジャッキーは村の住人全員を説得して友人のマイケルを亡くなったネッドに仕立て、村ぐるみで"あたり"をネコババしようとする。
しかし、そこには個性的な村の住民それぞれが入り乱れて・・・
強欲な独居のおばあさんや、養豚で生活している男、彼は村で子供と生活する母子家庭の母親に惚れている。彼女の方は彼のことは好きだが、豚臭いのが堪らなく中々首をタテに振らない。などなど。
こうしたキャラクターを絡めて、またアイルランド伝統音楽の楽器フィドルの彩りと共にユーモアと皮肉を含めて物語は進んでいく、可笑しく少し可愛い話。

 皮肉なお葬式?
「私が愛したギャングスター」-日本語の題名では大仰なタイトルが付いていますが、原題は"Ordinary Decent Criminal"
「日常的で、親切な(優しい)、犯罪」?ぐらいの意。
舞台はダブリン。強盗団のボス:マイケル・リンチは信頼できる仲間たちと犯罪を繰り返すが、どちら言うと義賊の扱いで街の一般市民からは共感を得ている。
彼はその昔住んでいたマンションの取り壊しに反対し篭城、抵抗。最後にダブリン市長までをも引っ張り出して2軒の家屋まで得てしまう。
この話は今や子供を寝かしつける為の子守唄だ。
彼の犯罪行為の底流に流れるのは、そうした公的権力への挑発と抵抗で、お金には興味が無い、いや正確には家族と仲間が食べれるものの分だけあればいい。
奥さんと子供はもとより、奥さんの妹とも夫婦同様の生活をして養い、2軒の家を行ったり来たりしている、
しかし体制には徹底的に挑発しからかうし、仲間の裏切りにも断固たる態度を取る。

 仲間を弔う・・・
1995年の作品。
「パブリックアクセス」で1993年にサンダンス国際映画祭グランプリを受賞したブライアン・シンガー監督の第二作。実質のメジャーデビュー作で世界中でロングラン公開となった作品。
脚本も同じコンビのクリストファー・マクファリー。
難解かつ緻密な構成のこの作品をこの二人のコンビで上手くまとめて上げている。

 カリフォルニアの港でコカイン密売に絡む船の爆破事件が起こる。
60体以上の遺体が発見される中、唯一の生き残りで身障者のヴァーヴァル・キントが保護される。
尋問するのはニューヨークから駆けつけたクイヤン捜査官。
「俺はおまえよりも賢い、聞きたいことは全て吐かせる」と。
物語は、保護されたキントへの尋問とその証言に基づく回想劇。
話は事件の6週間前に遡り、ニューヨークへ。5人の悪党がNY警察の首実検に並ばされる。単なる首実検に5人の悪党をわざわざ並べたりしない、しかもこの5人は一癖も二癖もある札付きの悪党"常連の容疑者"だ。
キントも含むこの5人は、証拠不十分で釈放されるが、5人が集まったことにより新たな犯罪に手を染めていくことになる。

 2000年に公開された中国映画。
監督は北京オリンピックの開会式/閉会式の演出も後に手掛けるチャン・イーモウ。
主演した女優チャン・ツィイーの出世作ともなった。

 お葬式は故人への尊敬と思慕/敬愛の情を表す儀式。
原題は「我的父親母親」。
父親の死の報に接して実家に戻る一人息子。
実家は山間の寒村だ。
亡くなった父親は40年ほど前にこの村に赴任した小学校の教師。
母親とはそこで出会う。
これはその40年前の純愛の物語。そして語られないが40年間の夫婦の愛情の物語。
父親のいなくなった実家の部屋。
古い織機でお棺に纏う布を織る母親、その後姿を見ながら棚の上の夫婦二人の古い新婚当時の写真を見る息子。

 ニューヨークのチャイナタウンを舞台にしギャングの抗争とそれを取り締まる刑事の活躍を描く。
ギャングの抗争は、守旧派的な古くからの勢力と若い"跳ねっ返り"の新勢力の争い。
そしてそれを取り締まるのが15分署の刑事だが、こちらも同じ中国人。
そこに若手の白人警官が配属されてくるところから物語が始まる。
 チャイナタウンの抗争は複雑で中国人同士の諍いの構図は普通のやり方ではわからない。
そこで同胞の刑事の登場となるのだが、同じ中国人同士「持ちつ、持たれつ」の関係を引きずっていく。
そうしたそれぞれの関係が緊張感を持つ中、事件は容赦なく起こり、それぞれに追う。
そして利害の対立から抗争が抗争を呼ぶ。
その中での中国人刑事のボスと白人刑事の友情も描かれる。
白人刑事は最初はチャイナタウンの「独自のルール」に戸惑い憤りも感じるが、徐々にその背景や暗部に隠された意味を知り、それに染まっていく。
それは彼が生き抜く決断でもある。

前回のコラムで「ビジネス書」について少し触れました、かね。
ちょっと前に「俺は、中小企業のおやじ」(鈴木修・著/日本経済新聞社刊)を読みました。この時点(09年4月末)で、11万部を超えるベストセラーとのこと。
これは軽自動車で日本のみならず海外にも覇を成した"スズキ自動車"の現社長の一代記。
数兆円の売上を上げる会社に成長させながら、"俺は、中小企業のおやじ"と現場主義を抜く著者の姿にビジネス合理性と人間性(人間臭さ)のバランスを見出して共感するのか・・・
と思う。
 余談だが、私はスズキの本拠地である静岡・浜松生まれ。
小さい頃の記憶で、浜松の町がスズキの軽自動車アルトに席巻されていたときを思い出します。
浜松の言葉で「まあ、やらまいか」と言う言葉がある。
これは"まずは、やってみよう"という起業家マインドの表れ、これが転じて「やらまいか精神」という浜松の人の気風を表す言葉まである。
「やらまいか精神」ではないが、独立した考えと魂を持ち、巨大なモノに立ち向かうキャラクターは映画の中では魅力的に映る。

 映画の中のお葬式のシーンを見込んでくると、そのシーンの持つ意味に大きな共通のものがあるのに段々気付いてきます。
人が亡くなり弔うシーン。
そこには亡くなった登場人物に交錯する各キャラクターの想いや感情があります。
観る者は、そこに"感情を移入せざる得ません。"
すなわち映画の持つエモーショナルな部分の沸点がお葬式のシーンとして表れることが多い。
逆に言えば、お葬式のシーンが単なる"ワンシーン"では、それは何か別の意味があるか、あるいは凡作か・・・

 1978年に刊行されたジョン・アーヴィング
のベストセラー小説。
1982年にジョージ・ロイ・ヒル監督によってこれを映画化。
1982年と言えば、当時はまだ中学生⇒高校生ぐらいで、右から左に映画を観ていた時期でした。
その中で"あの"スティング
のジョージ・ロイ・ヒルの監督作品だったのですが、ちゃんと観たのはそれから数年後に大学生になってから。
当時は大学でアメリカ文学を齧ってて、と言うか村上春樹がジョン・アーヴィングの本を訳している(熊を放つ)との情報やらから、勝手なイメージが膨らんでいました。
大げさに言えば、その頃の映画×小説(文学)の新しい世界観の潮流だったように思います。
その後、もちろん著作も読んで、映画も観て。
同じアーヴィング原作でも「ホテル・ニューハンプシャー」とは傾向が違います。
こちらはマイナス×マイナスはプラスのタイプ。
人生に襲い掛かる悲劇の連続を、最終的には観ている者に喜劇的に昇華させる。

 1965年のアメリカ/イタリア合作映画。
語るまでもなくデヴィッド・リーン監督の"不朽の名作"。
もう今から44年前の映画ですが、10代になるかならないかの頃にはじめてテレビで観ました。
全編3時間半ほどの長編。なのでテレビでの放送でも確か2週間に分けての前後篇で。
映画を観始めた頃に観たので"忘れない教科書"のような映画です。
個人的には父親がこの映画を好きだったので観たように思います。
物語の背景になったロシア革命なんかは、世界史の授業で習う前におおよそこの映画で把握しましたね。
その後、10年に1回は、ビデオ、DVDと変遷しながら見続けてきました。
年齢を重ねてから観ると感じ方は多少変わります、また違うことに気付くことも多いですね。
例えば、主人公ユーリ・ジバゴが亡くなった母親の形見のバラライカをなぜずうっと持っているか、とか・・・
観ての印象・感じ方では、ヴィクトル・コマロフスキー役のロッド・スタイガーの演技が、段々と「復讐するには我にあり」の三国連太郎の演技に被るなぁ、など。
でもいい映画とは、いつ観ても何か教えてくれるもんです。

 このコラムを担当してきてちょうど1年ぐらい。
月に2本のペースで"映画の中で描かれるお葬式"をテーマに紹介してきました。
別にこの回で終わるわけではないですが、なんとなく春が来て一巡り。
昔は、春も暖かくなっていい季節でしたが、今は「花粉症の季節」。
私自身もここ数年で発症し、油断すると重度のアレルギー症状に陥ります。去年は花粉を吸い過ぎて約1ヶ月間ぐらい酷い蕁麻疹に悩まされました。
今年はそれもあって毎度重武装。外に出るのもやや憂鬱なもんです。

 とはいえ、春になるとそれでもページが新しくなるよう。
思い出したように観たくなる映画もあります。
「虹の女神」
もその1本。
COCOWOでも日本語字幕&音声解説制作をDVD化の際に協力させてもらいました。

 昨年の9月に急逝した市川準監督の1999年に発表された作品。
元々TV・CMの演出家だったが1987年に「BU・SU」で長編映画にデビューし、その後1年に一本ペースで映画を撮ってきており、この作品が確か11本目か12本目。(確かじゃなくてごめんなさい。)
大阪出身の映画監督も数多いですが、東京出身の市川監督があえて大阪を舞台に憧憬も篭めて描くウェルメイドドラマ。
ストーリーは、夫婦漫才の夫婦とその子供(お姉ちゃんと弟)の家族の話。
この売れない夫婦漫才の夫婦を演じるのが、実際の夫婦でもある沢田研二
田中裕子

「どうもどうもようきてくれはりましたなあ。あんたもボーとしてんと挨拶せんかい」
「よう来てくれはりましたなあ」
「おおきにおおきに」
「・・・頼みもせんのに」
物語りも、こんな漫才の掴みと同じく"変わらなさ"と"温かさ"で包まれていて、どこかまた可笑しい。

 2008年に公開されて静かな感動を巻き起こした作品。
現在も凱旋公開中ということで公開されている劇場も多い。
何が「凱旋」か・・・

ちょうどこのコラムが上がっている間に発表になる「第81回米国アカデミー賞
外国語映画賞部門」にノミネートされている。
外国語映画賞は、英語以外で描かれた作品5作品がノミネートされている。
発表はアメリカ時間で2/22。はたして受賞はなるのか?


滝田洋二郎監督作品。
ユーモラスで、時に泣けて、そして静かに深く心を打つ。
日本人の心情になんだか一番刺さる内容を兼ね備えている。

納棺師(のうかんし)
亡くなられたご遺体を棺に納める仕事。
楽団の解散で仕事の無くなったチェリストが故郷に帰り、仕事を探す。

そこに求人広告が・・・

 1983年のオーストラリア映画。
監督は、この後に「刑事ジョン・ブック 目撃者」や「グリーンカード」「トゥルーマン・ショー」を撮るピーター・ウィアー。
主演がメル・ギブソン
シガニー・ウィーバー

1965年のスカルノ
政権末期のインドネシアが舞台、当時のスカルノは第三勢力の旗手と呼ばれてアジア/アフリカ指導者層のリーダーだったが、国内の共産勢力の台頭で政権の屋台骨が揺れている時期。
共産党(PKI)が武装化すれば、いつ内戦が起きてもおかしくない状態。
そんな状況下、反西欧化機運もある中、オーストラリア人特派員がジャカルタに派遣されてくる。
これがメル・ギブソン。
彼は、中国系の混血カメラマンのビリー・クワン(女優のリンダ・ハントが小男のカメラマンを好演。アカデミー最優秀助演女優賞を取る)の助けをかりて、混沌としたジャカルタでスクープをモノにして頭角を現しつつ、帰国間近の英国大使館の武官付き助手(シガニー・ウィーバー)と恋に落ちていく・・・

 映画とお葬式− のお題からしばし寄り道。 と言ってもテレビドラマから・・・ 昨年のはじめにNHKで放送されたドラマ「フルスイング」
。 野村監督時代の南海を振り出しに、30年間/7球団に渡り打撃コーチを務め、58歳で福岡の高校の教師となったが、わずか1年ですい臓がんのために他界した高畠導宏
さんをモデルにした物語。 原案は、門田隆将氏の「甲子園への遺言〜高畠導宏の生涯」。 最初の放送時には気になっていたのですが、バタバタと見逃し、年末の再放送(6回)で駆け込みで観ました。 高畠さんをモデルにした「高林導宏」役は、高橋克美。

 ちょうどこのコラムを書いているのが、アメリカ大統領選挙の開票日(11/5)。 バラク・オバマ
が第44代の大統領への就任が確実になったところ。 そして、このコラムがアップされるのが恐らく就任式(2009/1/20)の直前の頃(予定)。 8年ぶりの民主党の大統領。黒人初の大統領の誕生だ。

 「映画の中に見るお葬式」こんなテーマでこのコラムを書き始めたのが今年の春。年を越えると、もうちょっとで一年になりますが、まずは今年を振り返って公開された映画から何本かを・・・ 以前ほど劇場や試写でも映画を観る機会が減ってきているのが寂しいですが、ベスト3と言っていいのは奇しくも全て邦画です。

1984年作品。
阿佐田哲也の原作小説「麻雀放浪記」
の第一巻(青春篇)を映画化。
監督は、デザイナー、イラストレーターとして当時活躍していた和田誠。
原作の持つ世界観の再現性の非常に高い作品。

 舞台は敗戦直後の東京(銀座/上野界隈)。
瓦礫の残る廃墟、復興前の東京の風景を映画はモノクロームで描く。
元々デザイン、イラストの表現の世界に投じていた和田監督らしい拘り。
観るものは嫌味なく、すうっと入れる。
物語は、この街を舞台に混乱の中を生きる"さすらいのギャンブラー"たちを描く。
引き上げてくれたクラブのママには、「いい?この世界は、ボスと、手下と、敵しかいないの。」と教えられ、それでもそこに友情や愛や求めつつ生きる年若いギャンブラー"坊や哲"(真田広之)を軸に、一癖もニ癖もギャンブラーが集まる。彼らとの出会いから新たな人生を学んでいく・・・

1992年のロバート・アルトマン監督作品。
同年のカンヌ映画祭の監督賞/主演男優賞の受賞作品。
所謂、ハリウッドの内幕ものをベースにミステリーで仕上げた群像劇。
80年代は、まったく映画を撮らなかった(撮らせてもらえなかった)アルトマン監督の言ってみれば復帰作。
その分、映画業界への皮肉が効いている。
この後、翌年に「ショート・カッツ」。さらにその翌年には「プレタポルテ」を撮り、完全に、名声を取り戻します。
当時は、こうしたキャストが多く、そのキャストごとの背景やストーリーが絡み合う連鎖群像劇が珍しく、それだけでどういう風に一本の映画に仕上げるのか、ものすごく興味がありました。
厳密には「ザ・プレイヤー」は連鎖群像劇までとは言えないかもしれませんが、その萌芽があり、その後の彼の作品やポール・トーマス・アンダーソン監督の「マグノリア」なんかにも繋がります。

 日本では、このタイプの映画が少ないです。
なぜでしょうか?

 1993年製作のフランス映画。
日本公開は1994年。東京・渋谷のBunkamura
ル・シネマで。
ポーランド出身のクシシュトフ・キェシロフスキ監督作品。
フランス国旗"トリコロール"の青/白/赤に模した三部作の第一作。
青は、自由。
白は、平等。
赤は、博愛、が国旗に描かれる色の意味。
この作品は「青」=自由(再生)を描く。
ヨーロッパの著名作曲家の妻が主人公。
夫が来るべき欧州統合を前にそれを記念した協奏曲を作曲構想中、家族で交通事故に遭う。
そして夫と幼い娘を失う。独りだけ生き残る。
事故により自身も重傷を負い病院に入院中、現実に絶望し一度は死を選ぼうとするが、そこから向き直り"再生"の道を選ぶ。
しかし、なぜか夫の新曲の旋律が甦ってくる。彼のパートナーは未完の協奏曲の完成を宣言する。そして夫の過去の秘密までもが・・・

 この難役を演じたのがジュリエット・ビノシェ。
極力感情表現を抑えた演技で映画そのものをコントロールする。
それでも抑えつつ、夫のパートナーだったオリヴィエとの対峙、夫の過去の愛人との対峙など、その時々に想いを伝えていく。
それは自らが自由になることにより、周囲の人をも再生し解放しようとするかのよう。

ちょうどこれを書こうかとしている時に、ポール・ニューマン
の訃報を聞きました。
30年ぐらい映画を観ていますが、彼の作品も随分観ました。
中学生になるかならないかぐらいですから、それこそ30年近く前に東京駅の近くにあった"八重洲スター座"という名画座!で観たのが「スティング」。
面白かったですねぇ。
ああ、映画ってこんな面白いもんなのか、と素直に感じ入りましたね。
ニュースを観てそんなことも思い出し、諸々去来して、ポール・ニューマンの主演だったら「評決」という作品がちょうどお葬式のシーンがあったな、と思ったのですが、これはしばらく寝かせておきます。

ヴィットリオ・デ・シーカ監督、ソフィア・ローレン/マルチェロ・マストロヤンニ主演のものでなく・・・
邦画が続きます。
行定勲監督の2000年劇場公開の作品。


故郷を離れて東京で暮らす若者たち。
故郷の記憶は東京の生活で少しづつ薄まるが、ある日ニュースで小学校の同級生の女性の海での事故死を知る。
その女性は亡くなる数日前に、ある同級生の男性の留守電にメッセージを残していた・・・
十年以上も音信不通で、もう顔もすぐには思い出せない少女。
彼女は、どうして電話をかけてきたのだろうか?

1989年の東映配給作品。
舛田利雄監督作品。
タイトルからしても"社葬"。なのでまさにそこへ物語は向かう。
元々社葬は、葬儀でもありながら会社組織の新体制発表の場でもある。代が変わる内外へのお披露目。
 この映画はある新聞社を舞台に創業社長の懐刀だった会長(若山富三郎)と、創業社長の息子の現社長(高松英郎)、この二人を軸にした派閥抗争から、当の現社長が急死!(しかも芸者との情事の最中の腹上死)次期社長として誰が新たに権力を握るか、会社/組織を舞台にした闘争のストーリー。
ほぼ20年前の作品。当時のこの映画のコピーは「会社は戦場だ。」
そして「これはサラリーマン必見の映画!」と。

"顔"

 「日本橋浜町」というところに事務所を構えていますが、すぐ近所に明治座があります。
月替わりで変わる夏の演目は、関西の人情喜劇の王道・藤山直美さんの一座。
筋としては、放蕩三昧や色々とだらしないが才能のある夫を妻がなんのかんの言いながら叱咤し支えていく夫婦人情喜劇。
去年が「鉄幹と晶子」(共演は香川照之)。
今年は「元禄めおと合戦 光琳と多代」(共演は中村梅雀)。
 これ、嵌ると止められなく、夏の個人的な風物詩として1回は観に行くようにしています。
今年も藤山直美さんの"絶妙な笑い"が観たくて、お盆期間中に贅沢して観に行きました。

 そんな藤山直美さんの映画主演第一作が「顔」。

"ニューオーリンズ・トライアル"

 日本でも来年の5月21日から裁判員制度がスタートしますが、アメリカの裁判制度である陪審員制度をテーマにした"リーガルエンタテインメント"。
原作がジョン・グリシャム(「ザ・ファーム/法律事務所」「ペリカン文書」)。

日本でも度々報道されますが、アメリカで多発する銃乱射事件。
その被害者の遺族が、銃器メーカーを相手に訴訟を起こす。
銃器メーカーの方は、勝たねばならならい裁判で評決を左右する陪審員を意のままにコントロールして優位に誘導する"陪審コンサルタント"を雇い裁判を進めようとするが・・・

"恋しくて"

"恋しくて"公式サイト

 8月の声を聞いて・・・
単純に、夏だ!海だ! と言うわけではないですが、沖縄が舞台の映画。
沖縄というか、この映画はその中でも八重山地方と言われる石垣島が舞台。
昨年の春に劇場公開されました。
沖縄を舞台にした映画と言えばこの人、中江祐司監督
の作品。
「ナヴィの恋」「ホテルハイビスカス」に続く・・・
今回は、BEGIN
の高校時代を原案にした南の島での青春映画です。

"ミラーズ・クロッシング"

 フランス映画から、邦画/邦画、韓国映画と続いたので、久々にアメリカ映画を。
「ノーカントリー」で今年のアカデミー賞の最優秀作品賞と同じく監督賞を受賞したジョエルとイーサンのコーエン兄弟の1990年の作品。

 1920年代、禁酒法時代のアメリカ東部を舞台に、アイルランド系とイタリア系ギャングの抗争を描く。
アイルランド系のボス役はアルバート・フィニー。
このボスと主従関係を超えた友情に結ばれている懐刀トム役にガブリエル・バーン。
ボスの情婦でトムとも通じる"アバズレ"役にマーシャ・ゲイ・ハーデン。
その弟でセコイ、ゲイのノミ屋役にジョン・タトゥーロ。
そしてイタリア系のボス役は、コーエン兄弟作品常連のジョン・ポリト。

「友へ 〜チング」

 この映画が韓国で公開され日本で公開される前の頃、韓国人の友人から盛んに観るように薦められました。韓国国内では800万人の動員を記録して当時の興行記録を塗り替えた作品。
2001年作品。クァク・キョンテク監督/脚本。
その後、日本でも人気爆発のチャン・ドンゴンの出世作でもあります。

 70年代から90年代初頭までの韓国国内でも政治的にも激動の時代を背景に南部の都市プサンに生まれ育った男性4人の激しく翻弄される運命を描く。
リバー・フェニックス主演の「スタンド・バイ・ミー」的な要素も幾分入りつつ、韓国映画らしい重さと熱さでエピソードが上重ねされてくる展開で、出だしから引き込まれてきます。
言うならば「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・・・・」。

 

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