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 2000年に公開された中国映画。
監督は北京オリンピックの開会式/閉会式の演出も後に手掛けるチャン・イーモウ。
主演した女優チャン・ツィイーの出世作ともなった。

 お葬式は故人への尊敬と思慕/敬愛の情を表す儀式。
原題は「我的父親母親」。
父親の死の報に接して実家に戻る一人息子。
実家は山間の寒村だ。
亡くなった父親は40年ほど前にこの村に赴任した小学校の教師。
母親とはそこで出会う。
これはその40年前の純愛の物語。そして語られないが40年間の夫婦の愛情の物語。
父親のいなくなった実家の部屋。
古い織機でお棺に纏う布を織る母親、その後姿を見ながら棚の上の夫婦二人の古い新婚当時の写真を見る息子。

 ニューヨークのチャイナタウンを舞台にしギャングの抗争とそれを取り締まる刑事の活躍を描く。
ギャングの抗争は、守旧派的な古くからの勢力と若い"跳ねっ返り"の新勢力の争い。
そしてそれを取り締まるのが15分署の刑事だが、こちらも同じ中国人。
そこに若手の白人警官が配属されてくるところから物語が始まる。
 チャイナタウンの抗争は複雑で中国人同士の諍いの構図は普通のやり方ではわからない。
そこで同胞の刑事の登場となるのだが、同じ中国人同士「持ちつ、持たれつ」の関係を引きずっていく。
そうしたそれぞれの関係が緊張感を持つ中、事件は容赦なく起こり、それぞれに追う。
そして利害の対立から抗争が抗争を呼ぶ。
その中での中国人刑事のボスと白人刑事の友情も描かれる。
白人刑事は最初はチャイナタウンの「独自のルール」に戸惑い憤りも感じるが、徐々にその背景や暗部に隠された意味を知り、それに染まっていく。
それは彼が生き抜く決断でもある。

前回のコラムで「ビジネス書」について少し触れました、かね。
ちょっと前に「俺は、中小企業のおやじ」(鈴木修・著/日本経済新聞社刊)を読みました。この時点(09年4月末)で、11万部を超えるベストセラーとのこと。
これは軽自動車で日本のみならず海外にも覇を成した"スズキ自動車"の現社長の一代記。
数兆円の売上を上げる会社に成長させながら、"俺は、中小企業のおやじ"と現場主義を抜く著者の姿にビジネス合理性と人間性(人間臭さ)のバランスを見出して共感するのか・・・
と思う。
 余談だが、私はスズキの本拠地である静岡・浜松生まれ。
小さい頃の記憶で、浜松の町がスズキの軽自動車アルトに席巻されていたときを思い出します。
浜松の言葉で「まあ、やらまいか」と言う言葉がある。
これは"まずは、やってみよう"という起業家マインドの表れ、これが転じて「やらまいか精神」という浜松の人の気風を表す言葉まである。
「やらまいか精神」ではないが、独立した考えと魂を持ち、巨大なモノに立ち向かうキャラクターは映画の中では魅力的に映る。

 映画の中のお葬式のシーンを見込んでくると、そのシーンの持つ意味に大きな共通のものがあるのに段々気付いてきます。
人が亡くなり弔うシーン。
そこには亡くなった登場人物に交錯する各キャラクターの想いや感情があります。
観る者は、そこに"感情を移入せざる得ません。"
すなわち映画の持つエモーショナルな部分の沸点がお葬式のシーンとして表れることが多い。
逆に言えば、お葬式のシーンが単なる"ワンシーン"では、それは何か別の意味があるか、あるいは凡作か・・・